ネット右翼とサヨクの対立構造1 〜 かけ離れた言葉認識
ネット上で政治言論を観察していると良く見かけるのがネット右翼*1とサヨクの対立だ。彼らは対米・対中韓外交政策や改憲問題、教育改革など多方面で対立が見られ、その対立が議論によって埋まったことは殆ど見たことがない。何故彼らは対立するのか、何故わかり合えないのか。その原因と構造を考えようと思う。
オルタナティブ@政治経済という2ch型スレッドフロート式掲示板がある。ここは2chの共産板や政治思想板から離別するほどの強烈な左翼思想と2chへの怨恨を持つ者が書き込みを行っており、政治思想系ヲチャーの重要観察地点のひとつである。このオルタナを観察していて分かってきたことなのだが、どうも私とオルタナンとでは差別の「定義」が違うらしい。
私は差別と言う言葉を「偏見に基づき相手を批判すること」と定義して使用している*2。偏見の判断基準は「個人の属性を集団に当てはめること」及びその逆。例えばある韓国人が犯罪を犯したからといって韓国人全体を批難することは差別だと考えている。また中国人の犯罪率が高いからといってある中国人個人を批難するのも差別だと判断する。
しかしオルタナンは「弱者を批判すること」が差別であると認識しているような節がある。仮に「犯罪を犯した中国人への批判」という論題が差別にあたるか考えてみよう。私の差別認識の場合では、このケースだと「個人の属性を根拠とする個人への批判」であるため偏見にはあたらず差別にはならない、しかしオルタナンの差別認識では「中国人は弱者」であり「弱者への批判」という基準を満たしているため、この論題は差別であると判断される。オルタナンは弱者である中国韓国*3への批判は差別であるため絶対に認められず、そのような書き込みはクマされる。*4
逆にオルタナンは彼らを批判する者や政府など彼らが強者と認識するものにはやたらに厳しい。彼らは彼らを批判するネット右翼はキモヲタでひきこもりで差別主義者だと涼しい顔して言い放つ。相手が弱者に当てはまらない相手ならば、偏見で適当にレッテル貼って罵倒してもそれは差別ではなく正当な批判なのだ。特に相手が政府や自民の政治家などの強者である場合その傾向は増す。
また、この弱者批判への差別認識はオルタナンだけではなく朝日新聞も持ち合わせているようだ。
このmumur氏の記事を見ただけでも、朝日は韓国を弱者と見ており彼らを批判してはいけないと考えていることが見える。なんせこの市川記者「報道機関が韓国を批判することは適当ではない」と言い切っていますので。またこの対談を読んでいると韓国は弱者だという考えがありありと感じられるでしょう。この本での黒田氏と市川氏の対談は差別に対する認識が違っているため、議論が噛み合わないのも当たり前です。私もこの本を購入して読んだのですが、朝日の思考法がよくわかって面白かった。
これに対しネット右翼の中でも嫌韓厨の認識はどうだろう。彼らは「偏見に基づき相手を批判すること」を差別と定義する点で私の考え方と似ている。しかしその偏見の判断基準が大きく違い、彼らは個人と集団を同一視して批判しても偏見にならない。
例えば尼崎入居差別訴訟での大家側の主張『賃貸住宅をピンクに塗った韓国人がいたのでうちは韓国人お断り』に基づく入居拒否は正当と判断している。これはある個人が起こした無作法を集団の属性に転嫁し、その転嫁した集団の属性をさらにある個人に転嫁させた例だ。私からみれば差別以外の何物でもないが、嫌韓厨にとっては差別に当たらない。
このように人によって大きく「差別」という単語の受け取り方が違うのだ。これは差別という単語だけの問題ではなく、他の言葉にも言えることだろうと思う。そのような認識の差を埋めずに議論を行ってもわかりあえるはずが無い。とはいえ、認識の差を埋めようにも、認識の差の存在する場所を探し出すことは容易ではなく、それも一つとは限らないわけだが。